02年12月教育委員会定例会の傍聴メモ

 

 ●高円宮の葬儀にともなう弔旗掲揚に関して

 

 

【根本教育委員】事務局にお聞きしたいが、要望書というのは何を書いてもいいのか? 「死を悲しんでいない人もいる」とか、そんな内容を要望してもよいのか? 「日の丸・君が代」はいらない! くにたち・一橋ネットから出ている要望書は、常識を疑う文書だ。こんなものも取り扱わざるを得ないのか?

 

【井上庶務課長】基本的に要望書は全て受け付ける。委員さんもご存知のことと思うが、定例会に出す場合は「取扱い基準」がある。この基準から甚だしく逸脱しているかということが問題。要望書はいろいろなものが来る。教科書問題のときもいろいろな要望書が来た。こういうものを平等に定例会の場に出していくことが教育行政にとって必要なことではないかと思われる。

 

【佐藤教育委員】高円宮の要望書について。考え方は十人十色だが、生命の重さは同じ。だからこそ、傷つけてはならない。それは亡くなった後でも同じこと。悲しみは理屈抜きの感情。この要望書は文全体に違和感を感じた。他の委員の感想も聞きたい。

 

【石井教育長】佐藤委員より他の委員の感想を聞きたいというお話だったので私も。要望書が常識にかなっているかという問題であり、やはり節度が必要だ。私はこの要望書を読んで、何かの間違いではないかと大変ショックを受けた。人の死は厳粛に悼むのが常識。それを「この不況の中、人の税金で生活し、外国に行ったりスポーツしたりしている皇族がひとり減ったことをむしろ喜んでいる人もいるでしょう。」などとは、私にとっては信じがたい。人間の尊厳への冒涜。こともあろうに高円宮さまの急死を喜ぶとはどういうことなのか。イデオロギー・国家・民族の違いがあったも、命を大切にというところでは、共通に立てるのではないかとこれまで思ってきた。それが教育を進める前提だと思ってきた。ところが、この方の要望書は、人の情け・愛情が欠落し、歪んだ人権感覚をお持ちなのではないかと考えてしまう。

 

  この方、同じ方が、今度は平仮名のすみたにのぼるさんが、「国立市の教育委員会の<正常化>を願う市民の会」という団体名で別の要望書を出している。人の死に「喜んでいる人もいる」などと書く人が、いったいどういう尺度で正常化を願っているのか、疑問に思う。人の死を悼むことのできない人の求める正常化とは、とてつもなく異常な教育を目指すものではないかと思う。  私は、校長会と認識は一緒であり、全面的に校長会の要望書に賛同する。

 

【安藤教育委員】他の委員から人の命に優劣はないとお話ありましたが、私もその通りだと思う。問題はその先だが、私も弔旗掲揚には反対だが、私ならこういう風には書かないのではないかと思う。いろんな表現を出し合い考えていく、この定例会の場が開かれていくことが大切。教育長は言葉の暴力だということをおっしゃりたいのだと思う。だが、このまちでは、もっと物理的な暴力にさらされてきた経緯がある。力を力で封じ込めることはできないのではないかと思う。

 

 【佐野教育委員長】高円宮の要望書について私もひとこと。私も生を受けた者に生命の序列はないと思う。死は厳粛に、同等のレベルで心から悲しむもの。

 

 

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