2001年国立市教育委員会

第一回定例会の様子(2001年1月9日)

文責:国立市の教育委員会の

正常化を願う市民の会

*この記録は、傍聴者のメモをもとに作成したものです。全言記録とは違い、表現など必ずしも正確ではない部分もありますが、発言の順序なども含め、概ね教育委員会の様子を再現しています。(正確なものは、教育委員会で作成する全言記録をお待ち下さい。)

 

…12月議会の報告終わり、要望書について

重野:要望書が4件出ていますが。

石井:4件目については私が名指しで出ているので見解を明らかにしたい。結論的に言えば、この要望書は他の真摯な要望書とは異質であり、誠実さを欠いている。ブラックユーモア・中傷・言葉遊び・皮肉だ。このような一部の政治的意図を持った人たちと、他の要望書を出している誠実な人たちとは違うのは明らか

22日の教育委員会の後に、私が批判する人とは会わないと発言したなど書かれているが、これは誤解を招くので具体的な状況をお話ししたい。

 定例会の終了後、これは懇談会の前でもあったが、一部の傍聴者から大変強い抗議があった。とりわけ、教育長と教育委員長に対して。そのなかの3人が無理やり教育長室に入った。再三にわたり、退去を求めたが3人は退去しなかった。この3人とは、一人は教育に大変造詣の深い著名な市民運動家。もう一人はさる高名なジャーナリスト。もう一人は、教育問題に大変深い関心をよせておられるし議会議員。(*教育長は、この後もこの表現を複数回使用した。)この3人による声高な抗議が続き、約15分間に渡って実力で教育長室に居座りつづけ、この著名な市民運動家は「私たちと会うという約束が果たされていない。教育委員会が十分に審議していない」と述べた。しかし、私は「このような脅されているような中ではそういう約束はできないし、次長や庶務課長とも日程調整が必要である」と答えた。すると、さらに「日程の調整は約束するか」というので「それは約束する」と答えた。

 15分間に渡り騒然とした異常な事態が起こった。そのため、懇談会は20分遅れてしまい、このことは極めて不正常な状態。このときの教育長室での私の発言について、要望書で触れられている。(「ちがいま〜す」と呼ぶ声あり。)

 力づくで特定の主張を押し付けるような政治的圧力に屈してはいけない。公明正大に教育委員会はあるべき。

伊東:教育長のおっしゃる通り。私はなかなかそういうことを理路整然とは言えないので、教育長に敬意。教育委員会は特別な組織で独立してなければならない。委員会の最中に議員が野次や発言するというのは許すことはできない。(「…(不聴)…」と呼ぶ教育問題に深い関心を寄せておられる市議会議員の発言あり。)

安藤:教育長のお気持ちは重々承知するものの、私もその場にいたが異常・騒乱というような表現は強すぎると思う。

 前回の陳情の内容で私自身、一番大きな問題だと思ったのは、4月12日付の報告書に翌日の産経新聞が添付されていたという件。このことは前回、確認できなかったが、もし確認できているのなら…。

持田:報告書などは文書作成の手引きに従って行なっている。ご承知の通り、当時、マスコミ報道が殺到していた。あちらこちらから問い合わせ・意見などが大量に教育委員会に来た。

 この文書については、卒業式の実施状況について多摩教育事務所から報告を求められていた。この13日の産経新聞の他にも、その時に把握していた新聞記事を添付している。12日に文書を作成し、提出する当日にその日の13日の新聞記事を添付したということだ。

重野:安藤委員このような回答だがいいか。

安藤:とりあえず。また後で。

福永:誠意を持っているグループの要望書は真摯に読ませていただいている。しかし、これは真面目に出された要望書とは思えない。この「国立市の教育委員会の正常化を願う市民の会 学校指導課指導課」という部分など、学校指導課を指導する団体とはいったいどんな団体かと思ってしまう

 教育委員会は公正・中立・公平を守るべくやっている。私もプロではないのでいたらないところもあるが、言葉を選びながら発言してきた。「教育委員会の正常化」と書いているが、私たち教育委員が正常でないということは、敷衍して国立の教育全体が正常でないと言っているのではないかとも思うのだが。要望書に「7万市民」という言葉が出てくるが、7万市民がどう考えているかということを本当に考えたらこのような要望書の書き方にはならない。

 このような要望書が出てくると、私たちが否定されるようなことを何遍もしてきたのかと思い大変残念。

 この時期になると、国旗・国歌の問題で、いろんな重要な問題が遅れ遅れになっていくのはTAX PAYER(納税者)に申し訳ない。子どもにすまないと思う。いい教育の方向に改革できるように私たち決意をしたい。

重野:石井教育長が話されたことは私も同感。前回、この会からの陳情が否決されており、この陳情を私なりにしっかり読んだが、私たちがやってきたことが否定されている。2小問題については教育的に事実を明らかに (「…(不聴)…」とつぶやく声あり。)しようと努め、公正・中立にやってきた。個人情報の保護などはこれらは当然やってきたこと。ずさんなことをしてきたとは思わない。また、陳情に「事実行為及び該当者を確定し、厳正な措置を」と書いてあるが、そういうことは必要ない。

 私も議長として再三お願いしてきたが、委員会の冷静な議論に野次が飛び交い、次に進めない。教育論をたたかわせるにふさわしくない場となっている。

 毎年、国旗・国歌に時間を奪われ、大事なことができないのは残念。

安藤:この要望書は他の委員指摘の通り、確かに、一種、アイロニカルなことに満ちている。しかし、アイロニーは一種の表現形態であるし、この要望書を出した人たちが最初からこのような表現形態を用いているわけでなく、このような表現形態を用いる背景を考えることが必要。

 このことは後でまた話すとして、指導課長の先ほどの説明はなるほどありえることと思った。ただ、(いくつか事例をあげ)産経新聞に出ているはずのない報告書の内容が出ていたことなどは、情報公開的に何らかの瑕疵があると疑わざるをえない。私もこの場で疑義を述べてきたし、それに対する納得できる回答を得たとはまだ思っていない。

 それで、質問が二つある。一つは、都教委に報告するときに、どうやって参考資料・新聞記事を選んでるかということ。当日の新聞を添付したという課長の説明は一応、分かる。しかし、産経新聞は一つの立場に過ぎない。他の新聞もたえず都教委に報告して、都が把握しているか確認しているのか。

 二つ目は、再三、私も述べてきたが、教職員・保護者への確認は十分になされたのかということ。

持田:五大紙(朝日・産経・東京・毎日・読売)は、可能な限り目を通している。ただし、多摩版・都内版、さらに第何版というのがあり、網羅的にはできない。市民や都から新聞記事について問い合わせなどがくる。この場合は、文書報告という形だったので、日の近い新聞を添付した。雑誌などは膨大な量なので分かる範囲でやっている。

 次の質問だが、関係職員からは聞き取り調査をした。保護者からは、校長報告書に沿った聞き取りには応じられないと言われたので、文書で出されたものに沿って確認をした。

2小については、子ども達からは聞き取りなどしないということで当初から進めてきた。子どもたちから聞き取り調査をした報告書なども出ているようだが、私たちはそういうことはしない。

安藤:都教委もいろいろ情報を持っていることだし、このように新聞を添付するのは必要なのか。これは社説ということもあり、添付すること自体が記事の内容を正当化するという意味を持ってしまうことは言うまでもないことだ。

 また、この要望書は不誠実ではないかとの指摘があるが、その点は、私は見解を異にする。アイロニーは表現の一つであり、内容は真面目な問題提起。そもそも、私たち教育委員会が誠実であったかということも考えなくてはいけない。保護者の声が聴かれていないのも不誠実と言えるかもしれない。また、教職員には取り調べのような形で調査が行われたことはどうだったのか。保護者の声を聞く努力はできたはず。これらのことは誠実だったのかという問いかけはありえるのではないか。

 また、教育長が「イデオロギーに偏り政治的意図を持った一部の人たち」というような言い方をされたが、それについても見解を異にする。私も含め、それぞれの人がイデオロギーや政治的な立場を持っている。特定のグループを指して、そのような表現をするのは好ましくない。

 未だに私にも不明な点があるし、情報公開のあり方なども考えなくてはならない。

 また、「正常化」という言葉を要望書で使っているが、この言葉も考えなくてはならない最近、いろんな人達が使っている。都教委も使ったし、要望書を出している市民団体も使っている。今回、市民運動の人達もアイロニカルに使った。だが、「正常化」という言葉を超え、もう一歩先の議論をしたい。要望書の主張には共感するところもあるが、「正常化」ということには疑問。私自身、そもそもいったいいつ教育委員会が正常だったのかという思いを持っている。この言葉は50年代に文部省などが使い始めた言葉。教育基本法以前に戻れというイメージ。それに対して、教育委員会の「正常化」とは原理的に何を意味するのか。

 私たちは教育委員として何ができるのか。この教育委員会というものは戦後改革の結実。はじめは公選制だったのが、地教行法によって任命制に変えられた。このときに、警官隊が国会に導入され議決されたということも歴史的によく知られていること。それから、上意下達で事務局から出てきたものを通すだけで、委員が居眠りしてしまうような教育委員会になってしまった。さすがに、文部省も最近はまずいと思うのか、もっと若い人や女性を入れるべきなどと言い始めている。

 要望書で呈された疑義は依然残っている。さらに、教育委員会は何ができ、委員にはどういう権限があって、市民・事務局とはどういう関係にあるべきなのか。そういう議論をしていく必要。教育長が意見を述べられたのはそういう意味ではいいこと。しかし、傍聴者は教育長の意見に反論などがあっても何も言えない状態。中野区では毎週、教育委員会をやっていて、月に一回は市民と議論する日がある。その内容は私も詳しくは知らないが、こういうことは「正常化」ということを超え、自立した教育委員会にし、創造的なものとしていくために検討してもいいのではないか。

福永:私も黙っていて何も意見を言わないというわけにはいかないので、3点だけ。

 確かに、アイロニーは表現の一つだが、教育ではもうちょっと高い次元のものが求められる。

 二つ目に、教育委員会の本質論について、なかなか議論ができていないとは私も思っている。裁判をしているわけではないので、常識の範囲でこれまで処理をしてきた。しかし、そういう範囲に留まらないような状況にあるとすれば、そういうこともまた必要かもしれない。

 三つ目に、正すことは正し、市民からの声には真摯に答えていくというのは私も同じ立場。

石井:安藤さんが全面的な話をされたが、私もひとこと。「正常化」を超えて進むというのは全く同じ意見。この「正常化」という言葉は危険で、歴史的経緯も含め、何を正常というのかという基準の問題があり、イデオロギッシュなものになってしまう。

 子どもが社会的自立を果たせるか、今後、創造的な教育委員会としていくために、やるべきこととやってはいけないことは何なのか。こういうことを、そのときの雰囲気や思惑に流されず、冷静に話し合うことが大切。これは自戒も込めて。子どもを中心に置きながら冷静に議論をしていきたい。

……この後、次回の定例会の日程調整へ。

次回は、

1月23日(火) 午後2時から


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