改善検討委 保護者からの趣旨説明

 今日は、陳情の主旨説明の機会を与えていただいたことに、感謝いたします。現在の国立の教育をめぐる状況に対し、保護者としては不安な毎日を過ごしており、この思いと教育現場の実情を是非、市議会議員の皆様にも知っていただきたいということで、国立市立学校11校を網羅する保護者有志で陳情をださせていただきました。その代表として、主旨説明をさせていただきます。

 我々保護者は、国立の教育に対して、一定の評価をしております。国立の教育はすばらしい。子ども一人ひとりの個性を認め、大切にしてくれる。子どもの自主性を尊重し、学ぶ力を引き出し、考える力を育てる教育。まさに、2002年度から実施される学習指導要領の目指す教育を先取りする形で、子どもが育てられてきました。こうした国立の教育のすばらしさを聞き付け、わざわざ他市から越してくる子どももあります。また、たまたま国立に越してきたところ、前のところよりもいい教育を受けられるという保護者の声はよく聞かれます。このように中味の充実した教育が行われている国立の学校に対して、都教委内に「国立市立学校改善検討委員会」なるものが8月に設置され、10月には市教委へ、「学校教育の正常化に向けた改善策について」という指導がなされ、その回答が求められました。このことは、国立の教育が素晴らしいと思う保護者にとって、大変な驚きでした。

 そこで、その報告書の中味に目を通してみましたが、おかしな部分が多いことに気付きました。

 改善検討委員会報告書の1ー1教育課程の編成・実施の改善の現状(1)の項に、「市教育委員会に届け出られた教育課程では、おおむね法に定められた内容になっているが、届け出と異なる教育活動が進められている学校がある。」とあります。この文章からは、教育課程にはおおむね問題がないのに、まるで重箱のスミをつついて、問題を探し出している様子が窺えます。

 また、改善検討委員会の報告書の冒頭には、都教委は入学式や卒業式で国旗・国歌を実施していないことを問題とし、その問題の改善に向けた調査をする過程で、さまざまな課題を把握したとあります。そして、「国立市立学校における卒業式をめぐる問題は、日常の教育活動や学校運営を背景にして生じたものと判断するに至った」と書かれています。

都教委の改善検討委員会で国旗・国歌を問題にするなら、そのことに特化して考えていけばいいことであり、この問題にまつわる学校の管理運営上の課題を取りざたするのは、筋が違うのではないかと思います。

 何故、このような筋の通らない、重箱のスミをつついたような報告書が作成されるにいたったのでしょうか? この報告書が出されるに至った経緯を見てみると、ある種の政治的な圧力が働いていたとしかいいようがありません。

 この春、2小の卒業式後の出来事が卒業式実施報告書に書かれた時から、この政治的な圧力は強まりました。右派メディアによる偏ったマスコミ報道、右翼の街宣車、右派議員の国会や都議会での質問。そうした政治的な圧力の下で始まった、都教委の教員への聞き取り調査、教員への処分、そして、この改善検討委員会。その上、12月になって、都から職員が新たに6名も送られてきました。都の職員の加配については、数カ月前から決まっていたにも関わらず、市教委には、ぎりぎりまで教えられなかったそうです。

 政治的な圧力のもとに行われた都教委の行為は、教育基本法10条に定められた「教育は、不当な支配に屈することなく、国民全体に対して直接に責任を負って行われるべきものである」という条文に違反するといえます。そして、都教委の国立の教育に対する一連の圧力は、不当な介入であり、主権者である国立市民の権利と市教委の権限を踏みにじるものです。

 もちろん、これまでの国立の教育が完璧であるというわけではありません。小さな問題はあります。でも、それは、学校現場や、市教委の段階で、一つずつ解決していけばいいことです。

 改善検討委員会はつくられる経緯そのものがおかしいといえますが、作成された報告書の改善策も、校長の権限を強め、教員への管理を厳しくするものであり、一体、誰のために書かれているのか、疑問を持たざるを得ない内容です。

 報告書には、「校長」「管理職」などの言葉が40カ所以上も使用されているのに対し、「子ども・児童」という言葉は、数カ所しか登場しません。校長の教職員への管理強化のための改善策がえんえんと書かれているだけで、国立の子ども達の分析も、市民が国立の教育に何を望んでいるかなどの記述は、一切ありません。

 では、都の改善策が目指しているような校長権限の強化が実現したら、教育はどうなっていくでしょうか? 一般的によく言われるのは、教師に対する校長権限が強まると、教師の子どもへの管理も同じように強まるということです。教師は、管理職の顔色をうかがって、表面的な部分で子どもたちを厳しく締め付けていきます。子供達は、見た目に美しく整列しているか、お辞儀は45度の角度でできるか、制帽や名札をつけているか、教員の指示に従順に従っているかなど、教師は校長の高い評価を得るために、子どもを管理していきます。その結果、子どもは言われた通りのことをするのは上手くなりますが、自ら考えたり、自主的に勉強するのは苦手になります。また、厳しく管理されることで、ストレスを感じ、校内暴力やいじめといった問題につながるということは、教育評論家などが指摘しているところです。

 こうした検討委員会の改善策が目指している管理的で、子どものストレスを生み出す教育は、先ほど、私が申しました保護者がすばらしいと実感する国立の教育とは、対極にあるものです。

 保護者がすばらしいと実感する国立の教育とは、子ども一人ひとりを大切にし、個人の尊厳を重んじ、先生方の専門性、権利を守るものでした。それは、憲法と教育基本法をみごとに具現化した教育だったと言うこともできます。逆に、都の改善策は、教師を締め付けるものでしかなく、憲法や教育基本法の視点が抜けています。今、保護者がすばらしいと評価している国立の教育に対して、憲法や教育基本法の視点が抜けている改善策が、どうして必要なのでしょうか?

 改善検討委員会の報告書には、国立の教育がこのような改善策を導入した時、何が失われるかは、検証されていません。この改善策が子どもにどのような影響を与えるかということも考慮されていません。それは、この改善検討委員会が、国立の教育の現状を正確に把握しないまま、子どもの姿を見ないまま、改善策をつくっていることの表れです。本当に国立の教育を改善しようと思うなら、まず、これまでの国立の教育現場、子どもたちの様子、保護者の実感、そのような現状を綿密に、多角的なおかつ客観的に調査、分析する必要があります。

 何事にも、改善、改革が行われる時には、捨てられるもの、失われるもの、壊されるものがあります。

 都教委の作成した改善策も、国立の教育現場で実行に移された時には、失われるもの、壊されるものがあるでしょう。このような改善策が指導された今、その失われるもの、壊されるものが何であるかを、前もって検証する必要があります。どんなことでも壊すのは簡単でも、一度壊れたら、もう取り返しがつかないからです。

 私たちより、少し上の世代の方に話をうかがうと、こう言われます。国立の学校は子どもを大切にしてくれた、子どもの自主性を育ててくれた、子どもたちは生き生きと育ち、意欲的に学び、考える力、生きる力をのばしていった。国立の教育を受けることができて本当によかった、と。しかし、今、子どもを育てているわたしたち保護者は、その良かった教育が壊されようとしているのを、ひしひしと感じています。そして、なすすべもなく立ち尽くしているのです。

 保護者としては、ここで、今、国立の教育が直面している危機をお伝えするのが精一杯です。国立のすばらしい教育を壊さないでください、と言いたいのです。しかし、それでも、壊すと言われるなら、せめて、壊す前に、壊そうとするものを正確に把握してほしいのです。数年後、国立の子どもたちを見て、こんなはずじゃなかったと後悔しないためにも、壊す前に、もう一度、冷静に、客観的に検討してほしいのです。教育を改革するのであれば、最低限、科学的に行っていただきたいと思います。まず、実態を綿密に調査し、科学的に分析する必要があります。その手順を踏みはずして、いたずらに改革に走れば、国立の教育、国立の子供達、保護者、市民に、取りかえしのつかないダメージを与えることになります。

 私たち保護者有志、保護者OB有志は、科学的な分析のために、これまでの国立の教育について、いつでも語る用意があります。

 国立の教育は壊す必要のあるものなのか? はたして壊してもいいものなのか? 都教委の圧力に屈することなく、今一度、ていねいに検証していただきたいと思います。

 国立の教育の現状を正確に把握し、子どもの姿を間違いなく捉えられるのは、誰なのか? それができるのは、国立市立学校の先生であり、子どもの保護者であり、国立市民であり、そして、そういった声を聞くことができる国立市教育委員会なのです。だからこそ、教育の地方自治が求められるのです。

 そして、私の主旨説明に耳を傾けていただいた議員の皆様には、国立の子供達、市民のための教育行政を行うためには、国立市教育委員会の自主性が守られなければならないという基本原則に立ち戻っていただき、都教委に対し、市教委の自主性を尊重してくださいという意見書を提出してくださるよう、お願い申し上げます。

 


 

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